日本海中部地震(昭和58年)
地震の概要
概況
昭和58年5月26日12時00分、秋田県能代の西方沖約100kmでM(マグニチュード:地震の規模)7.7の大地震が発生した。深浦・むつで震度Ⅴの強震、青森・八戸で震度Ⅳの中震を観測した。
今回の大地震は日本海側に発生したものとしては過去最大の規模となり、また、県内で震度Ⅴを観測したのは昭和43年5月16日の十勝沖地震(M7.9)以来のものである。気象庁はこの地震を「昭和58年(1983年)日本海中部地震」と命名した。
日本海中部地震についてその震源事項を表2-1に示した。この海域(東北地方の西方海域)において昭和の年代に入ってからの顕著な地震は表2-2のように3回発生しており、何れも弱い津波を伴っているが、被害は殆んどなかった。また、同じ日本海でも東北地方以外の海域で発生したものとして昭和39年6月16日の新潟地震(M7.5)があるが青森県への影響はなかった。
図2-1は震央と震度分布図である。この分布から求められる等震度線はほぼ南北にのびる形となり、このことは東北地方の東方海上(太平洋)の場合と同じ傾向であり、日本周辺の断層の走向を表わしているとみてよいだろう。また震央からの最長有感距離は米子の約730kmとなっているが、太平洋海域の同じ規模の地震に比較するとやや短い距離となっている。これは日本海と太平洋の地層構造の違いを示していると考えられる。
図2-2は青森地方気象台の地震計記録である。一倍強震計の上から上下動、水平東西動、水平南北動の順であるが何れも矢印で示した測定範囲の上下線は振り切っており、強い震動のあったことがわかる。地震の規模M7.7はエネルギーにすると2.2×10.23erg(エルグ)であるが、これは新潟地震のM7.5の2倍となる。すなわち、地震のもつエネルギーはMの値が0.2大きくなると2倍となり1大きくなると30倍、2大きくなると1000倍となる。M7.7のエネルギーを電力に換算すると、青森県全体で1年間に消費する電力量とほぼ一致するエネルギーである。
今回の地震に伴って目で判るような地盤の変動はまだ報告されていないが、昭和58年、東京大学地震研究所の山科健一郎氏などによって岩崎西海上約40kmにある久六島(長さ53m幅13m)の上陸調査が行われたが、これによると地震翌日(5月27日)の上空からの観察、更にその後の上陸調査と、地震前のいろいろな写真を比較すると30~40cmの沈下がみられる。さらに局所的な変化は認められなかった事から島全体が一様に沈下したとみられることである。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
津波
地震発生後わずか7分で深浦に「引き波」の津波が到着した。図2-5は深浦測候所の検潮記録である。12時07分、引き波ではじまった津波が12時15分、押し波の第1波として襲来した。その後およそ10分位の周期で海面の昇降を繰り返し13時36分、65cm(当初の発表は55cmであったが、後日修正)の最大潮位を観測した。このように意外に早く津波が到達したことについては地震による海底の地盤変動が海岸に近い所までおよんでいたためと思われる。
県内の津波第1波の到達時間を図2-6に示した。部外機関の検潮記録及び聞きこみ調査によるものである。日本海側に沿った各地域において、津波の進んで来た方向、すなわち波向は全域北西となっている。これは震央から北々東にのびた余震域全体の海底が地殻変動し波源域になったものと十分推測できる。津軽海峡に面するむつ市関根浜には、日本海側からおよそ1時間後に津波が到達しているが、波速を決定する水深などからほぼ計算と一致する。
深浦の検潮記録による最大潮位は同じ深浦港内における津波の高さとかなりの差のあることが分った。地震発生後間もなく、仙台管区気象台と青森地方気象台は現地調査班を編成し、日本海側沿岸の津波の実地調査を行った。北の小泊から順に番号を付して津波の方向、最高水位などを図2-7に見易く図示した。このように場所によって津波の高さにかなりの差が表われたが、これは、波向に対する海岸あるいは湾内の形状、そして水深、水深の勾配、湾の固有振動(セイシュ)などに影響される。例えば小泊漁港は小泊半島の北側に面し、下前漁港は南側に面しており、同じ北西の方向から津波の襲来があれば津波の高さに差のあることは当然考えられよう。鰺ケ沢漁港は他地域に較べ津波の高さが平均的に低くなっている。これは港内における防波堤などの整備が津波を弱めた大きな要因である。
次に深浦港の平面図を図2-8に示した。深浦検潮所の南の方向約200mの所に青森港工事事務所深浦分室があり、この付近で3.6mの津波の高さが確認された。これが検潮記録と大きな差となっているが同じ湾内でも先に述べた理由によって波の高さに差の出ることは明らかである。しかし200メートルの距離でこれ程の波高差のあったことについては今後の調査に待たねばならない。これについて深浦測候所では、今回の地震の最大余震となった6月21日の湾内潮流の観測に基づいておよそ次のような見解をもっている。
「深浦港入口に未完成の西防波堤があり、この左側から港内に向って浸入した津波は図A点を中心として大きく左回りのうず(すり鉢状)となり、更にこれより大きく分流して湾奥に浸入した津波はB点を中心に左回りのうずを形成した。またC点においてもうず状に近い流れとなった。このためB点とC点における津波の水流は大きく収束し高い津波になったものとみられる。次にA点であるが、この北側に東防波堤があり、この外側の流れは左から右に向って流れていた。そして検潮所と東防波堤の間には数mの外海につながる水路がありA点におけるすり鉢状うずの右側の部分が次第に減衰しながらこの水路に沿って逃げ込むような状態で防波堤外側の流れに合流していた。」
以上であるが、これは観測事実に基づいた部分が多く、また最大余震時における弱い津波観測をモデルにしたものである。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
図2-05:深浦測候所 検潮記録
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-06:青森県における津波第1波の襲来時刻
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-07:現地調査による津波最高水位
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-08:深浦港平面図
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-09:小泊漁港(小泊地区)2/1
参考文献:日本海中部地震(津波)調査報告書
図2-10:小泊漁港(小泊地区)2/2
参考文献:日本海中部地震(津波)調査報告書
余震
海底の浅い所に大地震が発生すると、その震源の周辺に余震が数多く発生する。包絡線で結ぶと短軸約70km、長軸約110kmの楕円形となり、大地震後に発生する余震域の一般的な分布形態である。昭和30年、宇津徳治氏らが発表したM(マグニチュード)との関係式から得られる余震面積とほぼ一致する。
長軸は本震の震央から北々東にのび、これは先の群発地震で報告されている岩崎断層、大間越断層の走向と平行であり、余震域の大部分は青森県の西方沖に集中している。
時間別余震推移を図2-13に示した。余震の中で最大となったのは6月21日のものでM7.0、深浦・青森で震度Ⅳ、八戸・むつで震度Ⅲ、これは本震後26日目で余震域の北端に発生した。本震後から最大余震発生までの時間はMの大きさに比例し、M7.0以上であっても1カ月以内と言われている。また最大余震の発生する場所も余震域の端でおこることはよく見られる現象である。2番目に強かった余震は6月9日で、M6.1発生場所は余震域の南端である。
最大余震のあった6月21日以降の余震の発生場所をみると、最大余震の震央の周辺に集中している所から第2次余震とも言える。余震は、大きな余震の部分を除くと全体として指数関数的に減少していることが分る。この減少の速さは過去の例と比較して平均的なものである。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
1980年日本海中部地震の前震・余震活動
東北大学 理学部
弘前大学 理学部
1983年5月26日11時59分、日本海中部地震(M7.7、JMA)が発生した。東北大学理学部では地震発生後、男鹿および五城目で臨時観測を行ない、既設の微小地震観測網を強化した。さらに余震域の拡がりを考慮して、東北大学および弘前大学では震源域に近い弘前大学の岩崎、三厩の二観測点の地震波形データを電々公社臨時専用回線を用い、秋田経由で仙台迄伝送し、両大学の観測網データの一括処理を可能にした。
(1)前震活動
図2-14に前震および余震の震央分布を示す。図2-14(A)に示すように本震の震央(図2-14(B)の大きい星印)とほぼ同じ位置に、本震発生の12日前の5月14日より、顕著な前震活動がみられた(最大のM4.9)。(後略)
(2)余震活動
余震域の形状は図2-14(B)に示すように、逆くの字型を呈し、その東端部では久六島を中心にした半円状に凹んでおり、そこを境にして南北二つの活動域に区分される。
「地震予知連絡会会報 第31巻:国土地理院」より
図表
日本海中部地震による久六島の変動および強震計記録による震源過程
弘前大学 理学部
1978年9月頃から、青森県西海岸の岩崎村に発生した群発地震は1979年秋頃、ほぼ終息した。この地域では群発地震活動は非常にまれであるが、元禄7年(1694)、宝永元年(1704)と相次いで、青森、秋田の日本海沿岸に発生した大地震の十数年前にも、大間越付近で群発地震活動があった。これらのことも考慮して、弘前大学では群発地震活動が終息した後も、この地域の観測を強化することにし、その一環として、岩崎村の沖合約40キロメートルにある久六島に地震計を設置することを計画し、1980年現地調査を行なった。しかし、島は波浪が強く、観測の維持に多くの困難があることが判明したので、地震観測は断念したが、その際久六島の写真を撮影した(図2-15)。地震の発生後、久六島の変動が予想されたので、再び地震前とほぼ同じアングルで写真を撮影し、その比較から久六島の変動量を求めた。潮位の差は深浦の検潮儀で補正した。この結果、久六島の地震による変動は約30センチメートルの沈下で、この値は、断層モデルによる推定値と調和している。弘前大学ではまた、西海岸に1981年から短基線と短水準の観測点を設置していたが、地震後にその再測定も行なった。その結果は図2-16に示してある。短基線では1×(10の-6乗)を越える有意なステップが観測されなかったが、短水準では、2.9×(10の-6乗)radの西落ちの傾斜変化が観測された。この値は観測精度から見て一応有意な変化と考えられる。
弘前大学地震火山観測所では、構内に強震用加速度計も設置していたが、日本海中部地震に際して貴重な加速度記録が得られた。図2-17に三成分記録を示す。振幅のエンベロープを見ると、約20秒の間隔で2つの大きな山があり、この地震が2つの主要なイベントからなっていることがわかる。
「地震予知連絡会会報 第31巻:国土地理院」より
図表
昭和58年(1983)日本海中部地震
気象庁地震課
地震予知情報課
図2-18は今回の地震により発生した津波高さの最大、第一波到達時刻、押し引きを示したもので、気象庁のほか他機関から提供された検潮記録の資料を含めてある。
「地震予知連絡会会報 第31巻:国土地理院」より
図表
被害の概要
「昭和58年(1983年)日本海中部地震」(以下「日本海中部地震」という。)による被害は、8市32町23村に及び、これはほぼ県内の全域にわたるほどの大規模なものであるが、特に被害が著しい地域は、震源地に近い日本海側沿岸の町村である。
日本海中部地震は、マグニチュード7.7と大規模なものであり、さらにこの地震に伴い津波が発生し、日本海側沿岸地域では、5~6mもの大津波に襲われた地域もある。このため、津波災害としては昭和35年5月のチリ地震津波以来の17名もの尊い人命が失われた。
また、建物関係では、地震動や地盤の変動などにより、住家の全壊447棟、半壊865棟、床上浸水62棟等、多くの被害を受け、車力村、鰺ケ沢町、木造町、深浦町、小泊村に災害救助法が適用された。
環境保健関係では、浪岡町立病院が全壞に近い状態となり、入院患者全員が避難するという事態が生じたほか、水道施設に被害が続出し、このため延べ22,380世帯で断水するなどの被害を受けた。
商工労働関係では、地震動により商品が落下し、破損するなどの被害を受けた。
農林関係では、田植えをしたばかりの苗が地震動により浮いてしまう浮苗被害が8,375haに及んだほか、農地等が陥没、隆起するなどの被害を受けた。
水産関係では、津波により853隻もの漁船が防波堤あるいは陸に打ち上げられたり、沈没したり、大破したほか漁網の流出、切断などの被害を受けた。
土木関係では、地盤の変動等により道路が決壊するなどの被害を受け、一時全面通行止め等の交通規制を42か所で余儀なくされた。
教育関係では、地盤の変動等により壁のブレスが破断されたり、床が盛り上がるなどの被害を受け、特に深浦町立大戸瀬中学校、木造町立館岡中学校及び中里町立武田小学校の被害が甚大で、校舎の建直しが必要となり、現在でもプレハブ校舎により授業を行っていほか、国の重要文化財である弘前城も石垣の傾斜等の被害を受けた。
県庁舎等関係では、地震動等により洗面所のタイルがはがれ落ちるなどの被害を受けた。
警察関係では、地盤の変動等により道路標識等が傾斜するなどの被害を受けた。
これらの日本海中部地震による被害額は、
建 物 関 係:101億6,509万5千円
環 境 保 健 関 係:13億9,301万円
商 工 労 働 関 係:73億9,515万4千円
農 林 関 係:103億9,751万1千円
水 産 関 係:52億7,129万6千円
土 木 関 係:146億3,427万5千円
教 育 関 係:25億379万2千円
県 庁 舎 等 関 係:3,526万2千円
警 察 関 係:1,955万4千円
合 計:518億1,495万6千円
となった。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
図2-19:被害分布図
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
表2-03:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害被害状況(1/2)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
表2-04:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害被害状況(2/2)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
表2-05:市町村別被害額内訳(1/2)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
表2-06:市町村別被害額内訳(2/2)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-01:津波により岸壁に打ち上げられた漁船(小泊村小泊漁港)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-02:岩木川河口から進入した津波はものすごい速さで遡上した(連続写真-1)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-03:岩木川河口から進入した津波はものすごい速さで遡上した(連続写真-2)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-04:津波は更に十三湖を遡上した(連続写真-3)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-05:津波が進入し始める(連続写真-1)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-06:突堤を乗り越える(連続写真-2)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-07:漁船が転覆し大破する(連続写真-3)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-08:乗組員は無事はい上がる(連続写真-4)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-09:津波の襲来を知り非難のため沖へ出る漁船(連続写真-1)
参考文献:日本海中部地震(津波)調査報告書
写2-10:引き波で自動車が引き込まれる(連続写真-2)
参考文献:日本海中部地震(津波)調査報告書
写2-11:まもなく自動車が海中へ転落する
参考文献:日本海中部地震(津波)調査報告書
写2-12:津波の襲来後 無残!!(深浦町晴山地区)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-13:畑地で土砂の噴出による巨大な陥没(車力村豊富地区)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-14:決壊した主要地方道(今別蟹田線)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
写2-15:土砂崩れにより国道339号通行不能(三厩村尻神地区)
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
人的被害
死亡原因:日本海中部地震による死者は、17名であるが、近年の大地震である昭和43年の十勝沖地震(死者48名)の死者数に比較すると少ない。十勝沖地震の場合は100ミリをこえる大雨が降り、地盤がゆるんでいる状態の時に、強い地震動に襲われたため、地すべりや山崩れなどが各地で起こり、そのために多くの死者が出たものである。
今回の日本海中部地震では、十勝沖地震のような悪い気象条件ではなかったため、地すべりや山崩れなどいわゆる地盤災害による死者は無く、全て津波による死者である。これは、津波の波源域が西海岸に近かったため、津波の第一波が深浦の検潮所で地震発生後約7分で観測されるなど津波の来襲が非常に早かったこと、また、津波の高さが最高でも深浦の検潮所で65cmと観測されているが、実際にはこれ以上の高波が押し寄せ、場所によっては5~6mもの高さになって、海岸に押し寄せたため、逃げる間もなく津波にのまれ、多くの犠牲者を出したのである。このため、今回の死者は日本海沿岸すなわち西津軽郡及び北津軽郡の海岸に集中している。
また、死者の半数以上の9名は県内外から来た釣り客で、この釣り客の中には、一旦は津波から逃れたものの、引き潮のとき自分の釣り竿などを取りに再び元の場所に戻り、再度の津波にさらわれた人もいたという。さらに、海藻採取中に津波にさらわれた者、漁港の修築工事中に避難が遅れ津波にさらわれた者、漁網を補修しているときに津波にさらわれた者、津波による船の損傷を心配して漁港に船を確認しに行った際津波にさらわれた者など、予期せぬ大津波により多くの人々が犠牲になった。
なお、この他、死者34名を出した秋田県能代市の護岸工事現場においても本県人2名が犠牲となっている。負傷原因:負傷者は、重傷者7名、軽傷者18名、計25名である。これらの負傷者は避難の際転倒して負傷した者、買い物中に商品が倒れてきて負傷した者、天ぷら油で火傷をした者、海中に転落し、海水を飲んだり気を失った者、落石により負傷した者などである。
また、負傷者も、十勝沖地震の時(重傷者121人、軽傷者550人)に比較すると少ない。これは、地震動の強い地域が狭かったこと、大きな地すべり、山崩れがなかったこと、地震に対する心構えがしっかりとできていたことなどが幸いしたものである。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
建物被害
建物関係の被害は、6市15町15村に及び、住家の被害は、全壊447棟、半壊865棟、一部破損3,018棟、床上浸水62棟、床下浸水152棟で、非住家の被害は2,582棟で、被害金額は、合計101億6,509万5千円に達した。また、これらのり災世帯とり災人員は、1,374世帯、6,045人にのぼっている。
特に、津軽地方とりわけ日本海沿岸の町村での被害が大きく、村内の約80%以上が何らかの被害を受けた車力村をはじめ、鰺ケ沢町、木造町、深浦町、小泊村、中里町及び市浦村での住家被害が大きく、これら町村では、災害救助法又は災害救助法以外の災害援護の適用を受け、被災住民の救済に当った。
住家の被害で特徴的なことは、地盤の変動が相当ひどい場所でも倒壊した例はほとんど見られないことである。これは、倒壊するほどの地震動ではなかったことに加え、本県の住家の屋根は、冬の積雪に備えるためにトタン葺きにするなど、比較的屋根が軽いためとも考えられる。
また、被災住家を外観だけから判断した場合は、あまり被害を受けているとは考えられなかったものが、内部に入ると、内壁、柱、はり、階段など住家の主要構造部に大きな被害を受け、簡単な補修では元通りとはならず、結局は、立て直すしかないという被災住家が多く見られた。このような住家の被害は、地震動のみによって生じるというより、むしろ基礎の不等沈下や地盤の変動によるものと考えられる。
鉄筋コンクリート造の建物では、エキスパンションジョイント部分の被害が多く見られたが、これは、地震動の継続時間や振動特性がかなり特徴的であったので、これが建造物と共振作用を起こしたことなども一因と考えられる。
住家の中には床上浸水や床下浸水などがみられたが、これは主に津波によるものであり、一部には、水田からの浸水や水道管の破裂による低地での浸水もあった。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
ライフライン関連被害
電力関係
地震発生と同時に、管内で66KV以下の系統を中心にトリップ事故が発生し、最大18,470戸が停電した。
(1)送電線
33KV滝渕線がトリップ(17時27分送電良好)のほか、金木線を含む5回線で鉄塔、鉄柱の傾斜等の被害が発見された。
(2)発電所
滝渕、大池第二、松神の各発電所で、トリップしたが、19時00分までに点検の上復旧した。なお、専用道路、巡視路に土砂くずれ、落石による通行不能箇所が見られた。
(3)変電所
南津軽、十三湖、鰺ケ沢の管内三変電所において、変圧器の圧力継電器が振動により動作し、停止した。
設備被害は、軽微な機器基礎の傾斜支持碍子の破損等で、当面の運転には支障なかった。
(4)配電線
地震発生と同時に5フィーダー、さらに余震等により3フィーダー、いずれも津軽地方を中心にトリップ事故が発生した。
電柱の沈下、傾斜、電線の断線、混線が多く見られたが、19時10分全面復旧した。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
電信・電話施設
(1)加入電話の故障発生状況
加入電話の故障状況は表2-12のとおりである。特に鰺ケ沢局では平常日の約13倍の故障が発生したが、家屋倒壊等による修理不能の故障を除いて、殆んど5月26日中に回復した。
(2)線路設備
・市外線路設備
今回の地震は、マグニチュード7.7と大きかったにもかかわらず、設備被害が少なかった。
特に、青森~函館、弘前~青森、弘前~五所川原~鰺ケ沢等基幹ルートの重要市外ケーブルの損傷等による回線の故障は皆無であった。
・市内線路設備
流砂現象による電柱及びマンホールの浮き上がりや沈下、傾斜等の被害が各所に発生し、これによる管路の折損、引込線の断線や垂れ下がりの等の被害が発生した。
(3)宅内設備
家屋の倒壊、揺れによる電話機の落下に伴う機体の破損、コードの断線、水槽等の落下による電話機への冠水などの故障が殆んどであった。
(4)土木設備
基幹伝送路の故障は皆無であったが、道路の陥没、決壊などによるマンホールの浮き上がり、沈下、首部破損等の被害が発生し、管路の折損、ズレ、橋添部分の脱落等の被害を受けた。
(5)電話交換設備
管内の全交換機種すべてについて機能止の故障はなく平常どおりのサービスが可能な状態を維持したが、補強ボルトのハズレ、折損、浮き上がり等の被害が若干発生した。
(6)電力設備
電池の転倒など直接サービスに影響を与える故障は発生しなかったが、エンジン始動用空気系の減圧弁空気もれ、ボイラ煙突耐火レンガ脱落等の被害が発生した。
(7)局舎設備
局舎関係については、壁の小亀裂発生や外壁タイルのはく離、空調ダクトの落下などの局部的な被害を受け、また、局舎周囲の舗床の沈下、土留の損傷などの被害を受けたがいずれも軽微でサービスに直接の影響はなかった。
(8)自動運用関係
地震発生直後から県内の通話が一斉に惹起し、市内、市外交換機及び市外電話回線とも相ついで、ふくそう状態となった。
また、テレビ・ラジオで全国放送されたこともあり、いち早く全国各地から被災地への通話が殺到した。そのため発信局側で対地規制の措置がとられ、重要通話の確保に努めた。
対地規制は翌27日まで断続的に措置をとったが、被害の大きい鰺ケ沢への回線は27日夜までふくそうが続いたため、青森~鰺ケ沢間に18回線の臨時回線を増設し対処した。
(9)手動通話関係
地震発生直後、全国から青森、秋田方面への通話が殺到したため、異常ふくそうの発生により手動通話も青森管内で平常の3倍近い取扱数となった。
特に、五所川原、鰺ケ沢局では総取扱数でそれぞれ5~9倍になり、そのうち100番通話は鰺ケ沢で10倍にも達した。また、非常緊急通話については、青森局で15件の申し込みがありすべて接続を完了した。
また、5地区(青森、五所川原、むつ、野辺地、鰺ケ沢局及び関係市町村)に発令された津波警報については関係機関全てに伝達した。
(10)電報関係
地震発生後、県内の被災地に全国各地から見舞等の電報が平日取扱量の約5倍から12倍の着信があった。
特に、被害の大きかった地域への着信数は青森電報局扱い13,500通、弘前電報電話局扱いが8,500通もあったが、青森管内、管外から約300名の応援者を派遣したことにより30日には平常に復すことができた。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
水道施設
水道施設の被害は、39市町村1一部事務組合、525か所に及び、その被害額は約4億8千万円に達した。
被災水道施設のうち、上水道施設が28市町村1一部事務組合、374か所、約3億2千万円、簡易水道が15市町村、151か所、約1億6千万円となっている。
被災状況は、地盤の変動(沈下、隆起)による導・配水管の継手部の離脱、折損、亀裂が主なものであるが、このほか、地震動等による取水施設での水の濁りや流砂現象による浄水場の浄水機能の麻痺等がみられる。
市町村別では、深浦町(34か所、約2億円)をはじめ、車力村(49か所、約1億4千万円)、市浦村(25か所、約3千5百万円)、鰺ケ沢町(149か所、約3千4百万円)等が被害の大きい町村である。
また、水道施設の被災に伴い、断水地区が続出し、21市町村、22,380世帯で断水した。このうち上水道での断水が、16市町村、17,502世帯で、簡易水道の断水が7市町村、4,878世帯となっている。断水市町村別でみると、鰺ケ沢町(3,663世帯)をはじめ、中里町(3,299世帯)、深浦町(2,108世帯)、車力村(1,623世帯)等が断水世帯の多い町村である。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
ガス施設
(1)都市ガス
ガス漏洩の発見または通報件数は4ガス会社で82件に及んだが、このうち最も多いのが弘前ガスで46件、次いで青森ガス26件、五所川原ガス9件、八戸ガス1件である。
漏洩の多くは、地盤の変動(沈下、隆起)によりガス管が折損または継手部がゆるんだためにガスが漏洩したもので67件を数える。ただ、ガスの供給を停止しなければならないほどの折損は、八戸ガスの1件だけで、その他のガス管の被災は比較的軽微である。
被害額は都市ガス全体で11,369千円となった。
(2)簡易ガス
簡易ガスについては、五所川原市の雇用促進住宅で4か所のガス漏洩があった。
これは、プロパンガスを配管供給している供給管の中間コックのネジ山の所(立上り40mm)に亀裂が入ったためガス漏洩をおこしたものである。
なお、亀裂の入った所は、4か所ともほぼ同じような所である。この被害額は250千円となった。
(3)プロパンガス
前述した五所川原市の雇用促進住宅にプロパンガスを配管供給している供給管の破損以外の一般消費者のプロパンガスボンベ等の被災状況は、次のとおりである。
ボンベの転倒は、震源に近い鰺ケ沢町、深浦町など西海岸一帯の町村を中心に9市町村で見られた。
また、ボンベの転倒までには至らなかったが、震動等による供給管や低圧ホース類などの破損は、震源に近い西海岸一帯の町村をはじめ、むつ市、五戸町などの遠隔地においても見られその範囲は14市町村に及んだ。
なお、供給戸数などの関係から単純に比較はできないが、震源に近い西海岸一帯の町村においても被災状況に差異があり、特に、震源に近い岩崎村での被災が少なかったのが特徴的であった。また、内陸の浪岡町のように、震源からは幾分遠いが、ボンベが転倒するなどの事例が比較的多い所もある。
「地震予知連絡会会報 第31巻:国土地理院」より
図表
交通関係被害
日本国有鉄道の被害
(1)営業
地震後、直ちに県内全線区の列車を停止し、線路・橋りょう・トンネル等の点検を行ったところ、五能線(106か所)をはじめ津軽線(44か所)、大畑線(5か所)、奥羽本線(1か所)に軌道狂い、路盤陥没、築堤崩壊、橋りょう、トンネル変状等計 156か所の不通箇所が認められた。
このため、復旧までの間は、各被災線区とも一部又は全区間運休となったため、不通区間をバス代行等で接続をするなどの処置をとった。
(2)施設
施設被害は、五能線をはじめ津軽線、大畑線、奥羽本線、青森駅構内に集中している。
五能線においては、震源地に近いこともあり、路盤の沈下、亀裂が多数発生し、線路、橋梁、築堤、乗降場等に変状が認められ、また、駅舎等の内外壁の亀裂等多大な被害を蒙った。特に、鯵ケ沢~鳴沢間においては、最大1.2mの路線変状が認められ、また、鳴沢川橋梁橋台に変状が生じるなど復旧作業に相当数の日数を要した。
津軽線においては、蟹田~三厩間に被害が集中し、路盤の陥没、沈下等が多数発生した。このため、乗降場、トンネル、土留壁、建物等に多大な被害が生じた。中でも大平~津軽二股間においては、2か所で3.0mの路盤陥没が生じた。
大畑線においては、路盤の陥没・沈下等により、枕木の浮きなどの被害が生じた。
奥羽本線では、大釈迦~鶴ケ坂間での築堤法面崩壊や、浪岡での建物の傾斜等の被害が生じた。
青森駅構内では、第1岸、第3岸を中心に路盤の陥没、沈下、流砂現象による建物の傾斜、沈下貨物積卸場の不等沈下、流雪溝の損壊、軌道狂い、岸壁の前傾、桟橋ホームの片側破損等の被害が生じた。
このため、施設関係被害としては、軌道・土木関係を中心に約8億円の被害額となった。
●軌道・土木関係
盛岡鉄道管理局分 145,290千円
秋田鉄道管理局分 541,910千円
青函船舶鉄道管理局分 58,020千円
小 計 745,220千円
●建物・機械関係
盛岡鉄道管理局分 30,385千円
秋田鉄道管理局分 24,260千円
青函船舶鉄道管理局分 7,180千円
小 計 61,825千円
合 計 807,045千円
(3)電気
電気被害は、青森駅構内をはじめ奥羽本線、五能線、津軽線に被害が集中している。
青森駅構内では、第2岸、第3岸を中心に地盤が沈下したため、コンクリート柱の傾斜、わん曲亀裂、支線の浮き上がり、通信ケーブルや電気転てつ機の沈下、陥没、航海標識灯柱、照明鉄塔、信号機柱の傾斜等の被害が生じた。
奥羽本線においては、地盤の変動や地震動によりコンクリート柱の傾斜、低圧配電線の断線、踏切信号炎管の炎焼、情報連絡無線装置の焼損等の被害が生じた。
五能線においては、地盤の変動や津波により踏切警報機の傾斜、倒壊、電柱の傾斜、倒壊、沿線電話機箱の浸水等の被害が生じた。
津軽線においては、地盤の変動により電柱の傾斜等の被害が生じた。
これら電気関係の被害は、約8千万円である。
・電力関係
盛岡鉄道管理局分 27,613千円
秋田鉄道管理局分 4,701千円
青函船舶鉄道管理局分 500千円
小 計 32,814千円
・信号関係
盛岡鉄道管理局分 8,458千円
秋田鉄道管理局分 11,497千円
小 計 19,955千円
・通信関係
盛岡鉄道管理局分 7,430千円
秋田鉄道管理局分 20,530千円
小 計 27,960千円
合 計 80,729千円
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
地方鉄道
津軽鉄道の被害
地震発生と同時に第51列車を、始発駅である津軽中里駅に運転休止を指令し、また、第14列車を嘉瀬駅に、第54列車は津軽中里駅にそれぞれ待避させた。津軽五所川原駅からはモーターカーで線路巡視を行い、津軽中里駅からは徒歩とバイクにより(後に運休した動力車により)線路巡視をした結果、次のような被害を受けていた。
①十川駅~五農校前駅間、五所川原起点1K400m付近で約50mにわたり軌条屈折による軌道通り狂い及び約5cmの路盤陥没
②津軽飯詰駅~毘沙門駅間、五所川原起点5K000m付近飯詰川橋梁上で約20cmにわたり軌道通り狂い
③津軽飯詰駅~毘沙門駅間、五所川原起点5K890m付近で約25mにわたり約10cmの路盤陥没
④毘沙門駅~嘉瀬駅間、五所川原起点8K750m付近で約50mにわたり約20cmの路盤陥没
⑤嘉瀬駅~金木駅間、五所川原起点12K365m付近金木川橋梁、金木喜良市線架道橋、喜良市線架道橋前後橋詰で各15mにわたり10~20cmの路盤陥没及び各橋台に亀裂、一部破損
⑥津軽中里駅構内の貨物線が約20mにわたり約20cmの路盤陥没。津軽中里乗降場の陥没、傾斜(約70m)。津軽中里駅舎の床面コンクリート(120平方m)に亀裂、コンクリート基礎沈下による建物の一部傾斜、水道管の破裂(1か所)
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
その他の被害等
津波警報、地震・津波情報発表状況
- 5月26日 12時05分
地震情報第1号 - 5月26日 12時14分
津波警報「オオツナミ」 - 5月26日 12時25分
地震津波情報第2号 - 5月26日 12時30分
津波情報第3号 - 5月26日 12時45分
津波情報第4号 - 5月26日 13時10分
津波情報第5号 - 5月26日 13時45分
津波情報第6号 - 5月26日 14時35分
津波情報第7号 - 5月26日 15時15分
地震情報第8号 - 5月26日 17時15分
地震津波情報第9号 - 5月26日 17時50分
津波情報第10号 - 5月26日 19時40分
地震津波情報第11号 - 5月26日 20時58分
津波注意報「ツナミケイホウカイジョ」 - 5月26日 21時20分
地震津波情報第12号
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より
図表
図2-24:河川、海岸の被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-25:道路、橋梁の被害状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-26:砂防の被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-27:港湾の被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-28:公園、下水道、公営住宅の被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-29:浮苗の状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-30:農地農業用施設の被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-31:被害額別、水産関係被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-32:商工関係の被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-33:観光施設被災位置図
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
図2-34:幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲聾、養護学校の被災状況
参考文献:昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録
新聞記事等
5月27日付けタイムズ紙 30ページ
-大波による死者30人、北西日本-
大規模な地震による大波で、場所によっては約3mの高さに達したが、北西日本沿岸を襲い、海岸に来ていた子供を含め死者30人、行方不明者69人の犠牲者を出した。子供のうち3人は死亡、10人行方不明、残りの32人と大人4人は救助された。
地震は現地時間で正午過ぎ、秋田県沖深さ25マイルで発生し、マグニチュードはリヒタースケールの7.7であった。これは過去15年間のうちの最大の規模であった。
死者の大半は大波によるものであったが、この地震は建物・道路・通信施設にも広範囲にわたり被害を与えた。35,000世帯で停電となり新幹線もストップした。夕方までに39の余震が続いた地震は、300マイル離れた東京でも観測されたが被害はなかった。
生存者によると、三つの大波とそれに続く波が沿岸を襲った。海は数時間荒れ続け、大波警報は北日本の大部分で出されていた。政府は異常事態宣言を発し、救援隊は被害状況の調査を始めた。被害は沿岸約500マイルに及び、それは沿岸警備隊によると、漁船の転覆、ドックの破壊、自動車が沖にさらわれる等、完全な破壊のシーンであった。
テレビカメラは地震の激しさとドラマを全て捕えた。秋田のローカルテレビのフィルムは、道路がダンスをし、電柱が振動するのを撮っていた。
恐怖におびえた人々は路上に投げ出され、カメラは船が海岸近くで転覆するシーンを写した。母親は、おびえた子供をかばうようにうずくまり、商店主はメロンが路上に投げ出されのを追った。フィルムはまた、テニスラケットを手に芝生に集った女子学生達があげる金切声を除いては、沈黙した世界をうつし、観ている人を身動きもさせなかった。秋田県警の発表によると、地震動により防波堤を修理中の労働者10人が海に落ちたという。
『ヴィースバーデン速報』 1983年5月27日(金)号 13ページ
日本北部で海底大地震
不安と恐怖広がる
犠牲者続出/11人の学童波にのまれる/破壊的被害
東京(AP発) 昨日日本で、津波と地震を伴った海底大地震が、少なくそも100人の生命を奪った。第一振動は、12時頃(現地時間)15秒間記録された。不幸の数時間後には、23人の死者が収容され、54人の怪我人が救護された。これまでのところ、75人の人が行方不明と確認されているので、犠牲者の数はもっと深刻なものにのぼるだろうと心配されている。
確認されている犠牲者の内訳は、大波に押し流された11人の学童たち、建設労働者、転覆した船に乗っていた漁民たち、女性スイス人旅行者などである。地震計では、非常に高い値とされている7.7に達した。この海底地震は、日本北部の300kmの長さにわたる沿岸地をおそった。この地帯では、とりわけ秋田と青森で破壊的な物的損害が惹き起こされた。この地域では、過去44年間で最大の地震であった。
最も強い振動にひき続いて発生した無数の余震が、数時間にわたってなお住民を不安と恐怖に陥れている。秋田県の能代港で従業していた50人の労働者が乗っていた輸送船が転覆した際海中に投げ出された。少なくとも5人が溺死し、その他は行方不明となっている。彼らは石炭発電所の建設のための護岸基礎工事をしていたものである。また、1人の旅行者が、能代で倒壊してきた煙突に打たれて死んだ。26mの高さ(目撃者の報告による)の津波が、43人の学童の大部分と2人の教師を海中に連れ立った。彼らは、学校遠足で男鹿半島の海浜にピクニックにきていた。夕方までに2人の児童と2人の教師が死体で収容された。34人が救助され、11人が依然として行方不明である。多勢の津波犠牲者の中には、チューリヒからきていた38歳のスイス人女性も含まれており、当局は、その人の名前をマグダレーナ・ブランデンベルワーだと述べている。
秋田県にある火力発電所では、数ヶ所で火災が発生した。隣の青森県では、油送管がひどく破損した。多くの地域で電話接続が途絶した。北部日本の東京-盛岡間を結ぶ超特急による鉄道交通、いわゆる新幹線は、流れがストップしたため、一時的に運行を中止せねばならなかった。
最初の大揺れが、真昼時本州北部と日本列島最北部の北海道の各地を揺るがしたとき、恐怖でおののいた人々は、都市では、家々や事務所から通りに避難した。彼らの足下では、地面が穴を開けたり陥没したりした。アスファルト道路で深い亀裂があらわれ、国道は地割れのため、使用不能となった。
青森市では、ある商店(写真左)の屋根が倒壊した。ガラスの陳列棚はこわれ、野菜を並べていた台はひっくり返った。老人たちは平衡を失ない通りに坐り込んだ。母親たちは、子供を守ろうとしておおいかぶさった。
東京にある政府は、当該地域に緊急事態を布告した。中曽根康弘首相は、国務大臣の加藤六月氏を必要な救護措置を講ずるための特別委員会の座長に任命した。同委員会は、直ちに被害が最も大きかった、主として漁民や農民の居住する秋田近辺の地域に、救助隊と取りかたづけ隊を派遣した。救助隊員のうちの3人が、最も強い揺れのあった本州の北端で海中にのみこまれた。北海道1島の南部でも、人々が行方不明になっている。
「昭和58年(1983年)日本海中部地震災害の記録」より